2015年5月26日火曜日

わが国の犯罪学は情報爆発を乗り超えられるか(その2)

前回の続きです。なんだか、今回は、書き上げてみて、ヴェーバーの『職業としての学問』『職業としての政治』の劣化コピーの中でも、相当拙劣なものになってしまったように思います。でも、アップすることにしました。開き直りですが、そのような印象が正しいのなら、むしろ、その骨格は間違ったものではないでしょう。

実学的な学術分野の質は実務者コミュニティの質と人数により担保される

防犯研究と防災研究は、いずれも行政実務と深い関わりを有する実学的な学問分野でもあるが、これらの分野に生じている研究事情の差には、関連する行政実務のあり方も影響している。わが国の防災行政・防災研究は、具体的な災害を受けて発展してきている。多くの災害は、それぞれが歴史・文化・地域的な事情を反映しており、次に来るべき災害への教訓となり得る。しかし、次の災害への対策は、次の災害像を想定しつつ進めるほかないが、想定と異なる災害が生じうる以上、行政は、従来の災害を下敷きとするだけでは、災害対策の責任を全うできない。この点についての共通の理解があるからこそ、行政実務者は、学問上の根拠に基づいて政策を推進する必要に迫られ、学識経験者の主張に耳を傾ける姿勢を持つようである。また、次の災害の実相が分からないからこそ、防災研究には創意工夫が求められ、結果として、新規性のある研究が行われる。

基本的に、わが国の行政制度において学識経験者が何らかの役割を果たしている場合、その制度は、米国や英国を初めとする諸国の行政制度を反映したものである。わが国では、自然災害のメカニズムは自然科学者により説明されるべきであるという合意が存在する。自然災害の被害を受ける側にある社会基盤や建築物についても、工学者や技術者により取り扱われるべきであるという合意が存在する。司法制度には、少数の異論があるものの、心理学や精神医学を修めた者が犯人の心理を取り扱う過程が組み込まれている。

これら行政組織内に確立された専門的職能人を有する学術分野では、その専門的職能を有する行政職員の受入部局、つまりカウンターパートが存在するがゆえに、学識経験者との連携も円滑なものとなる。わが国では、回転ドアと呼べるような両方向の太いキャリアパスは存在しないが、行政職員から大学人へと転身する人物の専門的職能は、圧倒的に高等教育課程在学時の専門的職能と同一のものである。もっとも、防災行政という行為に求められる職能が判然としないがゆえに、わが国の防災行政職員には専門資格の修得が必ずしも求められないが、その反面、職員自身がその種の職能を向上させる際、試行錯誤を迫られることになる。

いったん行政組織内で専門的職能が確立されると、その行政分野の施策の学術的水準は、行政内の施策の水準が容易に低下しなくなるという点と、対応する学問分野の水準が低下しにくくなるという両点によって、担保されるようになる。ある行政分野において、専門的な思考様式を有する担当者がいったん多数派となれば、その行政分野における行為は、背景となる学問分野の水準に照らして明らかに程度の低い施策の採用を躊躇するようになる。また、行政実務の担当者は、指導教官なり地域の学識経験者なりに助言を求めるという行動を通じて、実務の水準をある程度のものに維持できるようになる。その職能に対応する学問分野では、人材供給先が拡大するだけでなく、同種の思考様式に共感する行政職員が増加するために、研究の糸口を見つけやすくなり、研究の遂行も円滑なものとなる。ただし、このような良い意味での官学連携が進むと、学識経験者も、行政行為に付随する結果責任を引き受けることにもなる。

実務者のコミュニティが外野の声の正しさを判定し尽くすことは難しい

ある学問的見地に基づき施策が推進されるべきという意見が外野から出された場合、ことは簡単ではない。その意見が制度上の裏付けを持たず、また圧力団体や政治家によるものでもない場合、わが国では、その意見は、良くともその場限りの調査研究として検討されるに留まる。この時点では、調査研究を通じて得られた経験は、行政組織の成員のごく一部にしか共有されない。調査研究の成果が実務担当者にとって大成功であった場合を除き、担当者が代替わりすると、行政組織としての施策の意義は失われ、学識経験者の努力は振り出しに戻ることになる。この経緯は、後任の実務担当者がリスクを避けつつ前任者との独自性を打ち出すという政治的判断のために生じる。

しかし一方で、外野の声が正しいものであるとは限らないことも、当然である。とりわけ、誰しもがウェブ上で気軽に発言できるようになった昨今では、発言する有識者に対して結果的に見れば非生産的な言いがかりを付ける匿名者には事欠かないようになっている。匿名者を相手とする場合に問題となるのは、発言者がどの程度学習しており、どのような理解の枠組を有しているかについて、推し量ることが手持ちの発言だけによらざるを得ないことである。ある有識者は、しばしば匿名のツイッターに対して「中学生からやり直せ」という具合に切り返すが、相手の短い言論だけで相手を判断し最適な回答を返すためには、やむを得ない方法なのだろう。公開の言論が円滑に機能するためには、参加者が、相手の学識と自身の学識とに対して適切な理解を有していることが必要なのである。

前例を頼りにしてはいけないという条件を課して、外部の声の正しさを判定する場合を想定してみると、実務担当者が前例を尊重する姿勢を良く理解することができる。わが国の行政組織は、明確な前例主義であり、縦割り主義でもあるが、「突拍子もない」外部の意見に左右されずに安定した行政活動を進める上で、これらの二本の柱は、きわめて重要な役割を果たしている。しかしその反面、ある施策の必要性は、縦割りの中に入ることが認められない限り、どれほど確率としては高く生じうる事象に備えるものであっても、その事象が現実のものとならない限りは問題視されない。逆に、確率的にはきわめて低く生じる事態であろうとも、ある事象が現実のものとなった場合には、対策が必要であるとする非科学的な意見に振り回されることになる。L2クラス、30mの波高の津波という事象をめぐる近年の防災行政が、この事例に該当する。

専門家集団の役割は正しい意見を確からしさとともに述べることに尽きる

それゆえ、ある社会に、妥当な見識を共有する一定人数以上の専門的集団が存在し、前例のない事象や外部の意見に対して自由で高度な検討を加えることができ、その社会がその見識を尊重できるという状態は、その社会が道を誤らないために必要である。専門的な学会とその成員は、このような機能を果たす社会的集団として期待されているはずである。しかし、知見を改善する機能を有しており、外野の知恵を拒まないという条件が満たせるのであれば、どのような存在であっても良いのかもしれない。いずれは、『創世記エヴァンゲリオン』にも描かれたような、複数の人工知能のネットワークが専門家集団よりも、よほど良い知恵を出すことになるかもしれない。

専門家集団には、外部からの意見の真偽を、先入観なく、かつタイムリーに検討できるという能力が求められる。外部からの指摘に対して自由な考察を行い、正しい結論を出すためには、専門家集団の成員は、その言論の正しさについてのみ責任を負うという形の免責を受けられる必要がある。『学者のウソ』の著者である掛谷英紀氏は、同書で構想した言論保証協会を特定非営利活動法人として設立し運営している。商業出版時に供託金を預け、誤った予測に対しては、供託金を没収するという制度を提唱するのである。しかし、ある商業出版物の正否は、『朝日新聞』の「慰安婦報道」(を放置したこと)のように、長期的にも経済的な形で評価されるわけであるから、掛谷氏らの方法は、屋上屋を架すものであるようにも思う。

#まったくの直感ですが、『朝日新聞』の「慰安婦報道」は、「報道」の内容そのものではなく、「訂正」に時間を要したことの方が致命的であると考えます。仮に、同紙が誤報していたとしても、その事実は、ほかの報道機関等が間違っていない保証にはならないので、その点は、重々注意すべきかと思います。ここで、同紙の報道の真偽には触れていないことに注意してください。

専門家集団の成員、つまり専門家には、自己の言論体系の正しさに対して、絶えず検証と調整を加え続ける作業が求められる。専門家集団に必要とされている社会的機能は、権力者や顧客の意思を忖度することではなく、まずは正しい見解を提示することであり、その見解の確からしさを併せて提示することである。掛谷氏らの提唱する方法は、テニュアを持つ国立大学教員に対してであれば、妥当するだろう。大学教員の身分保障は、わが国と社会のために正しい言論を提示することが期待されているゆえの制度でもある。

#第一、日本国籍の現役教員のだいたい全員が、わが国の制度の恩恵を受けて学識を身に付けたのではと思います。例外として、私が(記憶だけで)すぐに思いつくのは、安藤忠雄氏やロバート・キャンベル氏くらいです。

専門家の判断の土台となる規範や倫理は、古今東西、軽々に変わらない可能性が高いが、専門性の中核となる知識は絶えず更新されている。加えて、特定の社会の安寧を専門家としての目的に据える限りは、その社会と周辺状況の変化に絶えず追随する必要がある。それゆえ、社会政策分野では(、つまり、犯罪学界隈でも)、国を誤る判断を下さないためには、専門家集団には、タブーを設けず、物事の真贋を素早く検討できる能力が求められる。もっとも、タブーを設けないという辺りで、情報収集が必要な範囲は、一個の学問分野を簡単に超えるものとなってしまう。

各学術分野における知見の有力説は、本来、専門家以外の利用者が真偽を吟味せずとも済むよう「硬い」内容とならなければならない。他分野の専門家であれば、吟味するだけの能力があるかもしれないが、吟味に時間を取られてしまうことになり、本業に集中できなくなる。実務家の本来の仕事は、有力説の吟味ではなく、決定された政策の遂行である。政策にこれらの知見を反映するのは、本来、政治家の仕事である。

次回に続く

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